原蚕種の国家管理法成立の裏話
昭和9年に同法は制定されましたが、当時は兼営業者の特約制度が盛んに行われ地元専業者の地盤を侵略していました。中央では原蚕種の統一を図ることによってこれを是正すべく、同法案を時の国会に上程し衆議院の可決を得ましたが、貴族院で審議未了となりました。反対の急先鋒は大手製糸の重役で、この人物が貴族院の重鎮に協力を依頼しての出来事でしたが、両者とも制定前年に期を同じくして死去したので、同法案は可決されました。
東洋企業株式会社の結末
蚕種業者が蚕種輸出の円滑を図るため設立した同社は、初代社長は着実に成果を挙げましたが、二代社長は辣腕を振い、輸出蚕種の不法貿易や放漫経営を続けたため追放されました。良いブレーンに恵まれなかったのが一因とも言われています。
輸出蚕種に関する功罪
輸出蚕種は本来、国内販売の余剰を以って行うことが原則でしたが、昭和40年前後には一部業者の出荷蚕種に不合格品が混在したり、出荷枠の不正が生じたりしました。しかし、昭和48年以降は事業協同組合の設置によって、売買に関する窓口一本化と出荷前の品質検査の実施により、不祥事件の発生はなくなりました。また或る業者によっては輸出代金を別枠に処理し、日常の営業活動に利用した向きもあったと言います。
月世界のロケットが類似胞子を運んで来た?
昭和42年に月面着陸に成功したロケットがありましたが、その当時から各種の微粒子病胞子の類似型が発現しており、巷では月から類似胞子がやって来たとの風評がありました。時あたかも集団母蛾検査法の開発と重複していました。
蚕種地盤の移動に伴う業界共済制は・・・
蚕種販売の競合地区では業者間で共済制を敷き、移動を生じた場合には相互に補完する約定がありました。しかし、ある地域で業者間の交渉が決裂したため、一方が公取に提訴した結果、業者間の共済制度そのものが否定され、地盤を確保した社は暖簾料の支払いをせずに済むことができました。
川端竜子「蚕桑図」の後始末
当額は全国蚕種協会3代会長の宮沢修二氏の寄贈により、同会事務室に飾られていましたが、同会解散時に資金繰りの一部として全会員の入札で売却されることになりました。入札には3社が参加し、N社が落札しました。