元禄から安政年間に進むにつれ蚕糸業は次第に発展していき、蚕の品種改良は次第に進歩し、寒暖計が発明されました。その時代、蚕糸業の先進国:イタリア・フランスには微粒子病が流行し、養蚕業が絶滅の危機に瀕しました。当事国の要請により、日本から多量の蚕種が輸出されたのです。慶応元年にはナポレオン3世に蚕種1万5千枚を贈呈し、名馬26頭が幕府に献納された記録が残っています。
輸出蚕種で景気をつけた蚕種業者は、甘えて粗製乱造したり、不正蚕種や偽物蚕種を製造したりする不心得者が各地に続出したため、海外の信用を失いました。その結果、輸出蚕種は急激に減少し明治30年を最後に途絶えましたが、逆に外国蚕種の輸入が行われるようになりました。
その後、我が国の蚕糸業の発展に伴い蚕種の輸出が注目されるようになりました。昭和9年、原蚕種管理法の施行に伴い農林大臣の許可が必要となったので、以降輸出業務は正常に運用されて来ました。この制度は平成11年に蚕糸業法が廃止されるまで続けられました。
第二次世界大戦終了後からの50年間は、東南アジア・中近東・欧州方面に輸出が拡大し、出荷先は50ヶ国に及び常時15~20万箱が取引されていました。昭和32年には多くの業者が出資して東洋企業株式会社を設立しました。販売業務の一元化を図り一時は成功しましたが、代金不払いなどの不祥事によって後年同社は倒産しました。
一方、昭和48年には行政側より輸出事業に関する指導があり、協同組合法に基づく組織化の方針が決まりました。同年5月31日の臨時総会にて、全国蚕種輸出事業協同組合が設立されました。これによって輸出事業は窓口一本化が実現し、受注・集荷・出荷が円滑に行われ、代金決済も問題なく処理されました。この間には微粒子病毒発生事件や、中国を主体とする先進国への輸出禁止令も出されましたが(輸出蚕種が乾繭となり日本に輸入され国内養蚕農家を圧迫)、事務局の的確な措置によって苦難の道を乗り越えることができました。
全国蚕種輸出事業協同組合 歴代理事長
- 初代:吉岡重三(大里蚕種)
- 2代:小野誠一(伊達蚕種)
- 3代:福島蔵之助(フクシマ)
- 4代:金井武彦(山梨社)
- 5代:石浜亨(茨城蚕種)
- 6代:小野勝也(伊達蚕種)
- 7代:赤羽正久(高原社)